前期末葉から中期初頭にかけての地層からはおびただしい量のイルカの骨が発見されました。第一頚椎をもとにカウントすると、個体数にして285頭にもなります。イルカ層自体は調査した範囲よりも広がりを持っているので、実際にはもっと多くのイルカの骨が地中に眠っていると思われます。
出土したイルカの種類は同定できたもののうち、カマイルカが55.9%と半数以上を占め、以下マイルカ32.9%、バンドウイルカ10.0%、その他1.2%となっています。イルカ層は、獲ったイルカを解体し、廃棄する捨て場だったようです。
イルカは通常一箇所にとどまって生活してるのではなく、海水温の上下や海流などの動きに合わせて季節的に南北の移動をしています。真脇遺跡の面する富山湾では対馬海流の分岐流が流れ込んでいますが、そこに集まる魚やイカを追って真脇の辺りにもイルカの群れがやってきたと考えられています。
真脇の縄文人はどのようにしてイルカ漁を行っていたのでしょうか。真脇では縄文時代だけではなく明治・大正ごろまでこの地域ではイルカ漁が行われてきました。その例を見ると、湾の中に網をはり、船でイルカを追い込んでいたようです。しかし、最も出土量が多いカマイルカは網に追い込むだけでは捕まえられないといいます。真脇遺跡からは周辺の遺跡以上に石槍が出土しているので、追い込んだイルカを槍で突きとっていたのではないかと考えられています。
出土したイルカの量は一つの集落ではとても消費できる量ではありません。そこで、周辺の村々と共同で漁を行い、解体して分配していたと考えられています。事実、出土したイルカ骨の中にはそのように分配したときについたと思われる解体痕が見られるものがありました。
イルカ層からはイルカ骨以外にたくさんの土器や石器、木製品が出土しています。中でも目を見張るのはトーテムポールのような彫刻を施した木柱です。この彫刻柱は倒れた状態で出土しましたが、もともとは直立していたと思われます。

この木柱が何のために作られたかはわかりませんが、 イルカ漁と関係するマツリのシンボルだったとも言われています。北海道のアイヌの人々は、狩りで獲ったクマの霊を神様に返す「熊送り」という儀式を行って います。真脇の彫刻中もそのような「イルカ送り」の儀式に使われていたのかもしれません。














